こんにちは。九鬼家のダッシュ!!です。

昨日までの中学生編のブログをまだお読みでない方は是非、お読み下さい。↓↓

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〜高校時代〜
中学3年生、最後の3月記録会で10.92の自己新記録を達成して中学校を締めくくりました。
ここまでは、順調。
中学3年生のうちに初の10秒台をマークすることができました。

迎えた4月。
高校生となり1時間半かかる通学が始まりました。
そして、朝練がある日は毎日5:25の始発に乗車することになります。

新生活に色々な刺激を受けていましたが、気持ちと身体がバラバラになっていきます。

新生活で疲労感はありましたが、春の国体予選では10.80(追い風参考)で優勝をします。

その勢いで県インターハイを10.96で勝つことができました。

チーム内ではリレーでインターハイ出場を目指して練習を重ねていきます。
近畿インターハイは個人では準決勝落ちで、全く歯が立ちませんでした。

しかし、リレーで4位入賞をして、チームとしては約20年ぶりのインターハイ出場を決めることになります。
近畿大会が、和歌山開催ということもあって、校長先生方も応援に駆けつけてくださり、試合後にはみんなで喜びあったのを覚えています。

初出場となった埼玉インターハイでは強豪校の勢いに圧倒されながらすぐにレースが終わってしまったように思います。
準決勝敗退でしたが、他のレースなども観る事ができて「来年は個人でも出場するぞ!」と意気込んで和歌山に帰っていったのをよく覚えています。


インターハイ期間中、会場に向かう道中で先生から衝撃的なニュースを聞かされました。
現在同チームで、共に練習をしている選手が、10.67の中学新記録を樹立したのです。
中学生が、インターハイ入賞レベルの記録を出したことにとても驚いていました。

埼玉インターハイ帰宅から2〜3日後、和歌山県高校合同夏合宿で新潟県妙高高原に向かいました。
埼玉インターハイに向けて調整練習を繰り返していたので、いわゆる「ガス欠」の状態でした。

秋に向けて身体作りをすることに自分の中でしっかりと気持ちの切り替えが出来ておらず。
「俺はインターハイ選手なんだぞ!」という履き違えた思いを抱えたまま合宿を、ただただやり過ごすだけになっていました。

この合宿中、左母指球に違和感、右足首が痛みを感じ始めました。

もっと速くなりたい気持ちとボロボロの身体が祟って、直後の大会では調子を落としました。
走れない原因が分からず。
練習がダメなんだ、大阪の高校に行っていれば…と言い訳を見つけて逃げていた自分がいました。

そんなモヤモヤした気持ちから脱したのは10月の近畿ユース大会でした。
不調だったので自信がありませんでしたが、「同学年には負けたくない!」というプライドで優勝できました。

足の痛みをテーピングで補いながらも復調のきっかけを掴み、大分国体に出場します。

大分国体では、準決勝で10.80の自己新記録を更新し、決勝では6位入賞を果たします。
その時、遥か前を走って優勝したのが、同級生のリオ五輪銀メダリストの山縣くんでした。

大分国体終了後、普通に歩けないほど足が痛くなっていたので先生に許可をもらって病院でレントゲンを撮ると右足首が炎症、そして違和感があった左母指球は疲労骨折をしていました。

そして、自動的に国体でシーズンは終了。

その後の冬季練習では、怪我をして約2ヶ月間走れない日々が続きます。
短距離コーチの先生に体幹トレーニングを教わったり、ウエイトトレーニングを始めてみたりして色々なことにチャレンジしました。
その中でボールを挟んだ足上げ腹筋と背筋は日課にして練習日は必ず行うようにしていました。

そして、年明けからなんとかチーム練習に合流します。

当時、60mや100mの往復走をやってから、最後に300mトラックで行う200m×2本を週2回行うことが定番練習でした。
常に200m以内の距離を繰り返し走っていたのを覚えています。
そして、高校の練習にも慣れ始めて、自分の力をコントロールできるようになっていきました。

その後、この走れない時期の身体作り、高校の冬季練習はすぐに結果として現れます。

このブログを読んでくれている、中学生・高校生の皆さんも怪我で同じ経験をするかもしれません。
その時は、とても「苦しい、やるせない」気持ちでいっぱいになります。
しかし、そんな時に、身体作りに専念することで、その後に大きく成長することができると思います。

僕もこの一年生の冬の経験は、とてもいい経験になりました。



〜高校2年生に続く〜